取適法で値上げ交渉はどう変わったか — 2026年の価格転嫁を「営業の武器」にする
2026年1月、下請法は「取適法」に変わった。価格協議に応じない一方的な代金決定は明文の禁止行為になり、手形払は使えなくなり、従業員基準の追加で「うちは関係ない」と思っていた中堅企業が規制の当事者になった。10月にはインボイス経過措置の縮小も重なる。値上げ交渉の前提が法律ごと書き換わった年に、受注側と発注側それぞれが何を準備すべきかを、営業と調達の実務の言葉で整理する。
値上げを切り出したら取引ごと失うのではないか——この恐怖が、日本の価格交渉を長く縛ってきた。だが2026年1月1日に下請法が改正され「中小受託取引適正化法(取適法)」となったことで、構図は静かに変わっている。公正取引委員会・中小企業庁のリーフレット(令和7年8月)が示すとおり、価格協議の求めに応じないことや、説明のないまま一方的に代金を決めることが、明文の禁止行為に加わった。実際、中小企業庁のフォローアップ調査(2025年9月)では、コスト増加分の53.5%が価格転嫁できたと報告され、労務費の転嫁率ははじめて5割に乗った。本稿はこの制度変化を、受注側の「交渉の組み立て」と発注側の「うっかり違反の回避」の両面から実務に翻訳する。
下請法が「取適法」になった — 名前以上に変わったもの
2026年1月1日、下請法(下請代金支払遅延等防止法)の改正法が施行され、法律名は「製造委託等に係る中小受託事業者に対する代金の支払の遅延等の防止に関する法律」——通称「取適法(とりてきほう)」に変わった。用語も一新されている。親事業者は「委託事業者」に、下請事業者は「中小受託事業者」に、下請代金は「製造委託等代金」になった(公正取引委員会・中小企業庁 取適法リーフレット、令和7年8月)。
呼び方の変更を形式的な話と受け取ると、この改正の性格を見誤る。「下請」という従属関係を前提にした語を法律名から外したのは、発注側と受注側を対等な当事者として扱い、その間の取引条件を適正化するという理念の宣言でもある。執行の体制も広がった。公正取引委員会と中小企業庁に加えて、事業所管省庁が指導・助言できるようになり、違反を知らせる先にも各省庁が加わった(同リーフレット)。
「応じてもらえるかどうか」の交渉から、「応じずに一方的に決めることが違反になる」交渉へ。2026年の価格交渉は、出発点が法律ごと書き換わった。
この変化は、受注側には交渉を申し入れる足場を与え、発注側には従来の商慣行がそのまま違反になるリスクを生む。
何がどう変わったか — 従業員基準・特定運送委託・遵守事項
最初に押さえるべきは適用範囲の拡大だ。従来の資本金基準に加えて従業員基準(300人・100人)が追加され、資本金を低く抑えることで規制の外にいた企業も、従業員数によって委託事業者に該当するようになった。対象取引にも「特定運送委託」——製造等の目的物の引渡しに必要な運送の委託——が加わっている(公正取引委員会 取適法リーフレット、令和7年8月)。
| 改正事項 | 内容 |
|---|---|
| 従業員基準の追加 | 資本金基準に加え、従業員数(300人・100人)でも適用を判定。いずれかに該当すれば対象 |
| 特定運送委託の追加 | 製造等の目的物の引渡しに必要な運送の委託が対象取引に追加 |
| 一方的な代金決定の禁止 | 価格協議の求めに応じない・必要な説明をしないまま一方的に代金を決めることを禁止 |
| 手形払等の禁止 | 手形払を禁止。電子記録債権等でも、支払期日までに満額を得ることが困難な手段は禁止 |
| 面的執行の強化 | 事業所管省庁に指導・助言の権限。報復措置の通報先にも追加 |
| その他 | 金型以外の型も製造委託の対象物品に。書面交付は承諾なしで電磁的方法が可能に |
義務の側は4つ。発注内容(給付の内容・代金の額・支払期日・支払方法)の明示、取引記録の作成と2年間の保存、受領日から起算して60日以内での支払期日の設定、そして支払期日までに支払わなかった場合の遅延利息(年率14.6%)の支払いである(同リーフレット)。禁止行為は受領拒否から協議に応じない一方的な代金決定まで列挙され、委託事業者はこの「4つの義務と遵守事項」を守る立場に置かれた。
自社が対象かどうかの判定
判定は「取引の内容」と「資本金または従業員数」の組み合わせで行う。製造委託・修理委託・特定運送委託と、プログラム作成・運送・倉庫保管・情報処理に関わる委託は、資本金3億円または従業員300人が境界線になる。それ以外の情報成果物作成委託・役務提供委託は資本金5千万円または従業員100人だ(同リーフレット)。自社が受注側として保護されるのか、発注側として義務を負うのか——多くの中堅企業は、その両方に同時に該当する。
受注側 — 「お願い」から「協議の申し入れ」へ
では、値上げ交渉は実際に通るようになったのか。中小企業庁の価格交渉促進月間フォローアップ調査(2025年9月実施、同年11月公表。回答6万9,988社)によれば、コスト増加分のうち価格転嫁できた割合は53.5%。要素別では原材料費55.0%、労務費50.0%、エネルギーコスト48.9%で、労務費が5割に乗ったのは調査開始以来はじめてだ。発注側から交渉の申し入れがあった割合も34.6%まで増えた。
裏を返せば、まだ半分近くは転嫁できていない。通る交渉と通らない交渉を分けるのは、声の大きさではなく根拠の設計である。原価をどんぶりで示す会社は値切られ、原材料・労務費・エネルギーに分解し、原材料なら日本銀行の企業物価指数、労務費なら最低賃金の改定率や厚生労働省の毎月勤労統計、エネルギーなら資源エネルギー庁が公表する電力・燃料の価格といった公表統計・業界指標と紐づけた会社が通る。労務費については「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(内閣官房・公正取引委員会、2023年11月)が、発注側が取るべき行動、受注側が求めてよいことまで具体化しており、交渉の場で参照する物差しとして使える。
- コスト上昇の要素分解と、対応する公的統計・業界指標の一覧表
- 希望価格と、それを下回ったら受けない最低ラインの事前決定
- いつ・誰に・何を申し入れたかの協議記録(メールで残す)
3点目の協議記録は、単なる備忘ではない。協議に応じないことや説明をしないままの一方的な代金決定が明文の禁止行為になった以上、「申し入れた事実」を残すこと自体が相手の不作為を違反リスクに変える。記録は攻撃の道具というより、テーブルに着かせるための静かな圧力として働く。
件名と本文の言葉を変えるだけで、文書の法的な位置づけが変わる。お願いは断れるが、協議の申し入れを無視することは取適法の禁止行為に接続する。返答期限を添えて、書面かメールで出す。
それでも協議に応じない相手には、公正取引委員会・中小企業庁・事業所管省庁への情報提供という選択肢がある。通報を理由とした取引数量の削減や取引停止は報復措置として禁止されている(取適法リーフレット、令和7年8月)。もっとも、法的に守られていることと関係がこじれないことは別問題だ。まず記録と根拠で正面から協議し、通報は最後の手札として持つ——この順番は変わらない。
発注側 — 「うっかり違反」の急所は5つ
発注側にとっての2026年は、悪意なき違反が生まれやすい年になった。制度を知らないまま従来の商慣行を続けること自体がリスクになるからだ。急所は5つに整理できる。
第一に、価格協議の放置。値上げの申し入れメールに返信しないまま従来価格で発注し続ける——それだけで「協議に応じない一方的な代金決定」に近づく。第二に、手形払の継続。第三に、従業員基準の見落としで、資本金1千万円の会社でも従業員数によっては委託事業者としての義務を負う。第四に、特定運送委託の見落とし。製品の引渡しに伴う運送の外注が新たに対象になった。第五に、支払期日。受領から60日以内に設定されているかの再点検である(いずれも公正取引委員会 取適法リーフレット、令和7年8月)。
買いたたき規制は「安く買うな」ではない。「説明なく押しつける安さ」を禁じている。
調達・購買の実務としては、発注マスタと支払条件の棚卸しが出発点になる。取引先ごとに、資本金・従業員数・取引類型を突き合わせて適用対象を洗い出し、手形・支払サイト・価格改定の履歴を確認する。ここで見つかる論点の多くは、法務だけでは判断がつかない。相場観と原価構造という「市場の知識」があってはじめて、協議に誠実に応じつつ採算も守る着地点を描ける。
視点を変えれば、誠実な協議は供給網の維持コストとして安い部類に入る。人手不足で代替サプライヤーの確保が難しくなるなか、協議を渋って主力の取引先を失うことのほうが高くつく。取適法対応を「守り」で終わらせず、取引先との価格の対話を定例化する機会と捉えた企業から、供給網は安定していく。
10月にもう一つの交差点 — インボイス経過措置は80%から70%へ
取適法と同じ年に、もう一つ価格交渉の引き金が控えている。インボイス制度で免税事業者等からの仕入れに認められてきた仕入税額控除の経過措置(80%)が、2026年9月30日で終わる。10月1日以後は70%に切り替わり、以後は2028年10月に50%、2030年10月に30%と段階的に縮小し、2031年10月1日以降は控除できなくなる(国税庁 令和8年度税制改正特集)。
当初の予定では2026年10月に一気に50%へ縮小するはずだった。令和8年度税制改正がこれを細かく刻み、急な崖を緩やかな坂に変えた形だ。ただし同じ改正で、経過措置を適用できる上限は「一の相手先からの課税仕入れが年1億円まで」に引き下げられている(改正前は10億円。令和8年10月1日以後に開始する課税期間から適用。同特集)。
控除が10ポイント減る分を誰が負担するのか——ここで発注側が免税事業者に一方的な値下げを迫る動きが再燃しやすい。この論点には既に政府の整理がある。財務省・公正取引委員会・経済産業省・中小企業庁・国土交通省の連名Q&A「免税事業者及びその取引先のインボイス制度への対応に関するQ&A」(令和4年公表、令和8年1月改正)は、双方が納得して決めた価格なら問題ないとしつつ、買手の都合のみで著しく低い価格を押しつければ独占禁止法の優越的地位の濫用や取適法の買いたたきに該当しうると明示している。
免税事業者の側から見れば、10月は課税転換の損得を計算し直すタイミングでもある。控除縮小分の負担の分け方は、黙って飲むものでも一方的に押しつけるものでもなく、協議で決めるもの——取適法とインボイスが交差する2026年の作法は、この一点に集約される。
制度は「使う側」に回った企業から効く — 政策動向を商談の一行へ
物流業界は改正物流効率化法への対応を軸とする物流2026年問題に、建設・不動産業界は改正建築基準法をめぐる建築2026年問題に直面している。いずれの記事でも扱ったテーマだが、制度改正が起きるたびに企業は二手に分かれる。対応に追われる側と、制度を提案の物差しに使う側だ。
取適法も同じ構図にある。自社の値上げ交渉に使うのは第一歩にすぎない。営業の立場なら、顧客の調達部門が取適法対応に追われていること自体が提案機会になる。支払条件の見直し、価格改定プロセスの整備、協議記録の残し方——顧客がいま何に困っているかを制度から逆算できる営業は、商談の入口で選ばれる。
継続監視は、個人の努力ではなく仕組みで持つ
厄介なのは、制度が施行日で止まらないことだ。運用基準の公表、勧告事例の蓄積、Q&Aの改正が施行後も続く。実際、インボイスQ&Aは令和8年1月に改正され、取適法の施行を織り込んだ内容に更新された。四半期に一度ニュースをまとめ読みする程度では、商談で使える鮮度に追いつかない。取適法の運用基準や勧告事例の公表、インボイスQ&Aの再改正、労務費指針の改定といった動きを継続的に拾い続けるには、網羅と収集を担う仕組みと、その中から自社と顧客に効く一行を選び、真偽を確かめ、商談の言葉に翻訳する人の判断の両方が要る。この分業を自社の機能として常設するのがバーチャル・シンクタンクの考え方であり、営業が調べ物に溶かしている時間を取り戻す道筋については日本の営業生産性はなぜ低いのかで掘り下げている。制度改正の年は、情報の持ち方を変える年でもある。
よくある質問
取適法とは何の略ですか?
「中小受託取引適正化法」の通称で、正式名称は「製造委託等に係る中小受託事業者に対する代金の支払の遅延等の防止に関する法律」。下請法(下請代金支払遅延等防止法)の改正法として2026年1月1日に施行された(公正取引委員会)。親事業者は委託事業者、下請事業者は中小受託事業者と呼び方も変わっている。
自社が取適法の対象かどうかは、どう判断しますか?
「取引の内容」と「資本金または従業員数」の組み合わせで判定する。製造委託・修理委託・特定運送委託や、プログラム作成・運送・倉庫保管・情報処理の委託は資本金3億円または従業員300人、それ以外の情報成果物・役務の委託は資本金5千万円または従業員100人が境界で、発注側がいずれかの基準を超え、かつ同じ基準(資本金なら資本金、従業員数なら従業員数)で受注側が以下である取引に適用される。自社の取引がこの範囲外なら取適法の保護は及ばない(公正取引委員会 取適法リーフレット、令和7年8月)。
手形での支払いは全面的に禁止されたのですか?
取適法の下では手形払そのものが禁止された。さらに電子記録債権などほかの支払手段でも、支払期日までに代金相当額の満額を受け取ることが困難なものは認められない(公正取引委員会 取適法リーフレット、令和7年8月)。支払条件を手形前提で組んでいる発注側は、条件の再設計が必要になる。
インボイスの80%控除はいつまで使えますか?
免税事業者等からの仕入れに係る経過措置の80%控除は2026年9月30日までで、10月1日以後は70%に縮小する。その後は2028年10月に50%、2030年10月に30%と段階的に下がり、2031年10月1日以降は控除できなくなる。適用上限も一の相手先につき年1億円に引き下げられた(国税庁 令和8年度税制改正特集)。
値上げ交渉を申し入れたら、取引を切られませんか?
公正取引委員会・中小企業庁・事業所管省庁に違反行為を知らせたことを理由とする取引停止や数量削減は、報復措置として禁止されている(取適法リーフレット、令和7年8月)。とはいえ現実の交渉では、法律を振りかざす前に根拠と記録で正面から協議するほうが通りやすい。要素分解した原価と公的指標を添えた「協議の申し入れ」から始めるのが定石だ。